子供のころの私

(その1)誕生〜小学校時代




〜誕生〜


19●●年1月31日、都内某所にて誕生した私ですが、
幼少のころは現在とは違い、とってもカワイかったそうです。

おかげで近所の人からは女の子によく間違われたそうです。

当時の写真を見ると・・・なるほど納得です(苦笑)。

ちなみに妹ですが、こちらは私とは反対に当時の写真を見ると
まるでおたふくのようで、どう見ても「男の子」にしか見られなかったそうです(苦笑)。

そんな私でしたが3歳まではすくすくと順調に育っていました。

ただ、残念ながら当時の記憶はほとんどありません・・・





〜大怪我〜


荒川区某所(の2F)に住んでいたのですが、
幼少時代の私は高い所に登るのが大好きだったそうです。

そんなある日、突然悲劇は起こりました。

3歳のある夏の日のことです。

当時はクーラーが無かったので暑い日には窓を開けっ放しにしていたそうです。

そのままベランダに這っていった私は、手すりを登って・・・
なんと、そのまま地面に落下してしまったのです。

そのままピクリとも動かない私…

近所の人が血相を変えて我が家に飛込み、知らせてくれたそうですが、
その人は落ちた私を見て、死んだと思ったそうです。

幸い、頭からではなく左腕から落ちたために、左腕の骨折と打撲を除けば
深刻な怪我は負ってはいませんでした。

まだ3歳で骨が柔らかかったために衝撃が分散されたこともあったようです。
とはいえ、病院で診察結果を訊くまでは、両親ともに気が気ではなかったそうです。

私自身は落ちた当時の記憶は全く残っていません。

ただ、高所が苦手なのはその時の潜在意識のせいかも知れない、
と勝手に思っています(苦笑)。

骨折した腕の回復自体は順調だったんですが、
運の悪いことに入院中「はしか」に掛ってしまいました。

夏の暑い日にギプスを巻いていたことに加え、
はしかのせいでとにかく左手が痒かったんでしょう。

腕を動かしてるうちになんと、縫合していた糸が皮膚の中に潜ってしまいました。

そのおかげで余計な手術を受ける羽目になってしまったそうです。
今の時代だったら(溶ける糸だから)そんなことは無いんでしょうけど。

ちなみにその時の傷は今もしっかりと左腕に残っています。

父は(絶えず動き回る)私が心配で、夏に窓を開放することに不安を感じていたそうです。

そこで(当時まだ高価だった)クーラーを購入したのですが、
忙しかったのか入荷が遅れたのかは分かりませんが、
業者がなかなか取り付けに来なかったそうです。

そんなさなかで起こった事故だったので、怒った父は
「何のためにクーラーを買ったと思っているんだ!」
とその業者をぶっとばしたとか(真相は定かではありませんが…苦笑)。





〜ピアノ教室〜


4歳のころ、叔父が居た埼玉に引っ越しました。

幼稚園時代には大きな事件は起こりませんでしたが、強いて言えばしばしば女の子に
間違われることがあったことくらいでしょうか(苦笑)。

ただ、当時の両親は私に何か習い事をさせたかったようでピアノ教室に通っていました。
でも、当時の私はそれが嫌で嫌で仕方がありませんでした。

結局、途中で断念してしまいましたが
「もしあのまま続けていたらどうなっていたんだろう?」と時折思います。

「音楽関係の仕事をしてたかも知れない」とか、「歌手になってたかも(汗)」とか・・・

間違ってもピアニストになんかはならなかったと思いますが(っていうか才能ないんで…苦笑)。

ピアノを習っていた、ということは当然そのためにピアノ本体も購入していたわけで、
今も思い出の品として(笑)、我が家に「でーん」と置いてあります。

数十年もの間、ずーーっと調律してないのでまともな音は出ないと思いますけどね。





〜看護婦の母〜


母は独身時代から看護婦(師)をしていました。それは結婚後に私や妹が生まれてからも
変わらなかったので、昼間はほとんど家には居ませんでした。

ですから当時の私はいわゆる「鍵っ子」です。

学校から帰宅すると、母が作ったおにぎり(とおかず)が机の上にありました。

現在なら電子レンジでチンすれば良いのでしょうが、残念ながら当時の我が家には
まだなかったので冷たいまま食べていました。

でも、食事が作ってあればまだ良い方です。
母の勤務が忙しいときは夕食が無いこともありましたから。

そんなときは私と妹の二人分のインスタントラーメンをよく作っていました。
具は溶き卵だけのめっちゃシンプルなものですけど・・・(汗)。

中でもサッ●ロ一番シリーズのラーメンは数え切れないくらい作りましたね。

あまり良い思い出ではありませんが、当時はそれが当たり前の日常だったから
「寂しい」とか「つらい」と感じたことはありませんでした。

これは当時出来たばかりの「学童保育」に行ってたこともあるかも知れません。





〜恩師との出会い〜


小学校3〜4年生の私は、そのとき担任だった素晴らしい先生(N先生)のおかげで
たくさんの勉強をするようになりました。

その先生は勉強を強要することは決してせず、子供の自主性に任せた教育でした。
そんな先生が大好きだった私は、先生に褒められたい一心でひたすら勉強する毎日でした。

今思えば通知表の成績が一番良かった時期です(っていうか一番輝いていた時期かも…汗)。

そうそう、今も覚えている数字の単位(いち、じゅう、ひゃく…無量大数)を暗記したのもこの時期でしたね。
ちなみに無量大数はゼロが68個(=10の68乗)もあるんですよ!

…ってどうでもいい話なんですが(苦笑)。





〜いじめ〜


そんな私でしたが、5年生になるころから何故かいじめを受けるようになりました。

ほんのちょっとしたことがきっかけだったのかも知れませんが、
理由は今でもよく分かりません。

でも、両親にはこのことは一切話しませんでした。
そして、今も知らないはずです。

哀しくて悔しかったけど、「両親にだけは心配をかけたくない」、
という気持ちだけで耐えた記憶があります。

まあ、うちの場合は父が破天候な人だったので、
それを反面教師にしてきたこともありますけど(汗)。

さらには高鉄棒で遊んでたとき、手を滑らせてダイビング!
そのまま右腕から落下して骨折…

すぐに(母が勤務していた)市内の病院に行って治療をしてもらいましたが、
さすがにあのときは照れくさかったかったなぁ・・・

また、利き腕だったので授業のとき(に字が書けないこと)と
食事で苦労したことは今でもよく覚えています。

ちなみにこれで左手と右手の両方(の腕)を骨折したことになるので、
少しはバランスが取れたかも(苦笑)。





〜昆虫博士〜


小学時代の私は昆虫が大好きでした。

家にあった図鑑や百科事典は、ほとんどが新品同様だったのに対して、
「昆虫図鑑」だけは擦り切れるほど見たのでボロボロでした。

おかげでほとんど丸暗記しちゃいましたから・・・(苦笑)。

そんな私は、いつしか『昆虫博士』と呼ばれるようになりました。

勉強嫌いだった私ですが、ひとたび興味を持ったものに対しては例外だったようです。
もっとも、当時の知識のほとんどはもう忘れちゃいましたけど(汗)。

見るだけではなく実際に捕ることにも夢中で、蝶やバッタ、トンボやてんとう虫、
カマキリなど、一年中色んな昆虫を追いかけていました。

中でも特に熱中していたのが、「カブトムシ」と「クワガタ」で、夏休み中は毎日、
早起きしてチャリンコで近所の雑木林へ採りに行っていました。

カブトムシやクワガタを確実に採るコツは、夏前(6月頃)にクヌギなどの木に
(昆虫が集まる)樹液が出ている木を見つけておくことです。

そうすれば、闇雲に探さなくても確実に捕らえることができますから。

ただ、当時は(業者のような)大人も採りに来ていたので、その人たちとの「戦い」でした。

大人が5時に来るなら4時半に、4時半にくるなら4時に、といった具合です。
おかげで毎朝、家に戻るころに近所の新聞配達や牛乳配達の人とすれ違っていましたね。

当時から負けず嫌いだったようですが、今となっては良い思い出です(苦笑)。

「戦い」と言えば、蜂の中で最も危険な「スズメバチ」との戦いも大変でした。

というのは樹液に集まる昆虫はカブトムシやクワガタだけではありません。
スズメバチも樹液が大好きなんです。

うっかり木に近づくとスズメバチに刺されてしまう。
でも、その横にいるカブトムシやクワガタは捕りたい。

…で、どうしたかと言うと、落ちていた石や枝などをスズメバチに向けてブン投げます(←アホ)。
見事命中すればいいんですが、残念ながらほとんどハズレます。

そして、ハズレるとどうなるかと言えば…当然、スズメバチは怒って追いかけてきます(汗)。

そうなるとあとは全速力で逃げるしかありません。
もし刺されたらシャレになりませんからね。

幸い、一度もスズメバチに刺されたことはありませんでしたが、
当時は怖いもの知らずというより、ずいぶんと無茶なことをしてたなぁ、と思います。

そんな体を張った努力のおかげで(汗)、多いときには一日で
カブトムシとクワガタの合計で30匹くらい捕れることもありました。

今思えば、もし1匹100円で売れたとしたら結構な小遣い稼ぎになったかも知れません。

朝4時くらいに家を出て6時前には家に帰ってましたから、もし売れてたとしたら
ずいぶん割りのいいバイトになったハズ・・・(笑)





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